2022年12月27日掲載
リッチャヴィ朝以前
- ネパールの中心、カトマンズ盆地には旧石器時代から人が住んでいたことが明らかになっている。ドゥマカールの遺跡で発見された木具を放射性同位元素で測定した結果、紀元前2万7400年ごろのものと推定された。また、タライなど旧インド文化圏の各地でも旧石器時代の遺物が発見されている。
- 伝説では、カトマンズ盆地は太古の昔湖だった。スワヤンブー寺院を参詣しに来たマンジュシュリ(文殊菩薩)が湖を囲む山を剣で切り開き、湖水を流しだし人が住めるようにしたという。
- また、「ネ(ne)」という名の牟尼(聖者)が、最初にこの地を「統治(pal)」 したので、「ネパール(Nepal)」の名が付けられたという伝説もある。その他、ネパールの起源に関する伝説は数多く存在する。
- ネパールの古い歴史については「バンシャバリ」といわれる王朝王統譜が5種類伝えられ、「ゴーパーラ王朝」「マヒシャパーラー王朝」「キラータ王朝」があったとされるが、信憑性は低い。
- 紀元前6世紀 – 現在ネパール領のカピラヴァストゥ共和国の統治者の子として釈迦(仏陀)がルンビニで生誕し、北インドに教えを広めた。これらの地域は当時はインド文化圏に含まれていた。
- 紀元前3世紀 – インドのアショーカ王が釈迦の生誕地である南ネパールに巡礼を行い、仏塔を建立した。
リッチャヴィ朝時代
4世紀にインド・アーリヤ語派の王族によるネーパーラ王国リッチャヴィ朝が成立した。
リッチャヴィ朝は5世紀後半から6世紀にかけてカトマンズにマーナ宮を造営し、政治・行政機能を設けた。
また7世紀初頭にはカイラーサ・クーラ宮、中葉にはバドラ・アディヴァーサ王宮を造営。
またパンチャーヤト制やグティの原型となる住民組織を保護・育成し、また商業を奨励し都市経営の基盤を固めるなどした。
チベットと文化的、経済的、政治的の密接な交流があり、宗教・商業上の中心地として繁栄した。
中世
リッチャヴィ朝の衰退に乗じて9世紀にはデーヴァ朝が興り、バクタブルに王都を築いた。
ネワール文化が栄えた。続いて14世紀末にはマッラ朝が確立されたが、1450年ごろにバクタプル王国(バクタプル・マッラ朝)からカトマンズ王国(カトマンズ・マッラ朝)が独立する。
その後1619年までにマッラ朝、パタン王国(パタン・マッラ朝)もカトマンズ王国から独立し、三王国並立時代となる。
ゴルカ朝前期
マッラ王朝は内紛・抗争で力を失い、18世紀前半にはカトマンズ西方の山地でゴルカ王国(ゴルカ朝)が勢力を拡大する。
そして1768年から1769年にかけて、第10代ゴルカ王プリトビ・ナラヤン・シャハによってマッラ王朝は滅ぼされる。
そして350の小王国に分かれていたネパールが統一され、ゴルカ朝はカトマンズを首都にネパール王国を作った。
- 1790年 – 1791年 – 清・ネパール戦争
- 1814年 – 1816年 – ネパール・イギリス戦争(グルカ戦争)
イギリス東インド会社との戦争の結果、善戦したが敗北。
スガウリ講和条約により、西はマハカリ河以西、東はメチ河以東、および全タライ地方を放棄する代わりに、イギリスから毎年20万ルピーの支払いを受けることになった。(ただし、講和条約締結の9か月後にはイギリスは20万ルピーの支払いをやめて、タライの大部分をネパールに返還し、ほぼ現在の国境ラインに落ち着いた)このほか条約にネパール兵がイギリス軍傭兵に志願できるという条項を加えた。
イギリスはネパールのことをグルカ(Gurkha=ゴルカ)と呼んでいたので、ネパール人傭兵はグルカ兵(ゴルカ兵)と呼ばれるようになった。
これが現在まで続き、ネパールは英印両国に毎年グルカ兵を提供している。
ラナ家支配時代
- 1846年 – 宮廷内の虐殺事件を機にジャンガ・バハドゥル・ラナが宰相となる。以後、宰相はラナ家の世襲となり、1951年まで シャハ王家は傀儡となる。
- 1854年 – ジャンガ・バハドゥル、近代的な大法典ムルキー・アインを公布。
- 1857年 – 1859年 インド大反乱(セポイの乱)で英軍を援助。
- 1914年 – 1918年 連合国として第一次世界大戦に参戦。
- 1910年代 – ワジリスタン戦争(英領インド)英軍を援助。
- 1919年 – 英・アフガン戦争で英軍を援助。
- 1934年 – 1月15日に、ビハール・ネパール地震が発生。
- 1939年 – 9月4日に、連合国として第二次世界大戦に参戦。
- 1947年 – ネパール国民会議派(現在のネパール会議派の前身)結成。
- 1949年 – ネパール共産党結成。
王政復古
- 1951年 – トリブバン国王、亡命先のインドより帰国し王位に就く(王政復古)。ラナ家の支配終わる。立憲君主制を宣言。
- 1953年 – エドマンド・ヒラリー、テンジン・ノルゲイ、エベレスト初登頂。
- 1955年 – マヘンドラ国王即位。
- 1956年 – 日本国との外交関係を樹立。
- 1959年 – 初の総選挙。ネパール会議派・B.P.コイララが政権をとる。封建的諸制度の改革を急速に進め、国王との間に溝ができる。
- 1960年 – マヘンドラ国王がクーデターにより議会を解散。政治活動を禁止。全閣僚を逮捕。
- 1962年 – 新憲法制定。政党の禁止、国王に有利な複雑な間接民主主義「パンチャーヤト制」、ヒンドゥー教の実質国教化など。
- 1972年 – ビレンドラ国王即位。
- 1980年 – パンチャーヤト制の是非を問う国民投票。僅差で存続決まる。
民主化時代
- 1990年
- 2月18日、パンチャーヤト制廃止、複数政党制復活を求めて民主化運動(ジャナ・アンドラン)起こる。ネパール会議派と共産系7政党が共闘。
- 4月8日、ビレンドラ国王、政党党首とテレビ出演。複数政党制導入を約束。
- 4月16日、国王、パンチャーヤト制の廃止を宣言。
- 4月19日、国王、ネパール会議派のクリシュナ・プラサード・バッタライを首相に指名。
- 11月9日、国民主権を謳った新憲法制定(1990年憲法)。
- 1991年
- 5月12日複数政党制による30年ぶりの総選挙。ネパール会議派が勝ち、ギリジャー・プラサード・コイララが首相に。
- 1996年 – ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)が王制を打破すべく、「人民戦争」を開始。(ネパール内戦)
- 2001年1月 – マオイスト、正式に人民解放軍を創設。
- 2001年6月1日 – ネパール王族殺害事件によりビレンドラ国王らが殺害され、ギャネンドラ国王が王位につく。
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- ギャネンドラ国王は議会を停止。以後、国王・議会・マオイストによる混乱状態。
- 実質的には武力のない議会に力はなく国軍を掌握する国王派とマオイストによる内戦が続き、政府支配地域とマオイスト支配地域に分かれる。
- アメリカが国王を支援。武器を供給するなどしたが、武装した農民がマオイストに合流するなど混乱に拍車をかける結果に。
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- 2002年10月4日、ギャネンドラ国王はクーデターによりネパール会議派のデウバ内閣を停止、国王の親政を行う。11日、王党派のチャンダを首相に任命。
- 2004年6月 – 国民の声に圧されて国王は再びデウバを首相に任命。
- 2005年
- 2月1日 – ギャネンドラ国王は再度議会・内閣を停止。絶対君主制を導入、非常事態宣言(実質上の戒厳令)を発令。4月末日に解除された。
- 12月 – 議会内の7党連合と議会外の毛沢東派が和解、共にギャネンドラ国王の独裁と闘うことで合意。
- 2006年
- 4月 – 7党連合、ゼネストを呼びかけ。民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)が高まる。毛沢東派も抗議行動に参加。
- 4月24日 – 国王が直接統治断念と国民への権力移譲、議会の復活を発表し、政党側に首相推薦を要請。27日、コイララ政権が発足。
- 5月 – ネパール政府、毛派をテロ指定解除。
- 5月18日 – 議会が国歌変更と政教分離(ヒンドゥー教の国教廃止)を満場一致で決定。
- 11月21日 – 政府とマオイスト、無期限停戦を誓う「包括和平協定」に調印。2007年6月までに制憲議会選挙を実施することで合意。
- 2007年
- 1月15日 – 下院、暫定憲法発布。その後、下院は解散。
- 1月23日 – 国連安保理、国連ネパール支援団(UNMIN)を設立する安保理決議1740を全会一致で採択。国軍と人民解放軍の停戦を監視。
- 2月 – ネパール南東部では暫定憲法に反対し地位向上を訴えるマデシ(インド系少数民族)の抗議行動が続き、地元警察との衝突により少なくとも21人が死亡。
- 12月27日 – 暫定議会、ネパールの政体が連邦民主共和制になる旨の暫定憲法改正案を承認。
- 2008年
- 4月10日 – 制憲議会選挙の投票が実施され、毛沢東派が第1党となったが過半数は獲得できず。
- 5月28日 – ネパール制憲議会が招集され、新たな政体を連邦民主共和制と宣言して正式に王制が廃止された。ギャネンドラ国王は退位し、ここにネパール王国(ゴルカ朝)は終焉を迎えた。
王制廃止以降
- 2008年
- 6月11日 – ギャネンドラ前国王、王宮を退去。
- 7月19日 – 初の大統領選挙。副大統領にパラマーナンダ・ジャー(マデシ人権フォーラム)当選。大統領はいずれの候補も過半数に達せず。
- 7月21日 – 決選投票の結果ネパールの初代大統領にラーム・バラン・ヤーダブ(ネパール会議派)が選出される。
- 7月23日 – ヤーダブ大統領、正式に就任。ジャー副大統領、就任式にインドの言語・ヒンディー語で宣誓し、マデシ以外のネパール人から激しい抗議行動を受ける。
- 7月24日 – ネパール外務省、各国外交団に国家の正式名称を”Federal Democratic Republic of Nepal”,略称を“Republic of Nepal”とするよう要請。
- 7月28日 – 日本国政府、正式にネパールの国号を「ネパール連邦民主共和国」に改める。
- 7月29日 – ジャー副大統領、ヒンディー語で宣誓し、混乱を引き起こしたことを陳謝。
- 8月15日 – 首相に毛沢東派・プラチャンダ(プシュパ・カマル・ダハル)が選出される。
- 8月31日 – プラチャンダ内閣、全閣僚が就任。毛派のほか統一共産党、マデシ人権フォーラムほかの連立内閣。
- 2009年
- 1月12日 – ネパール共産党毛沢東主義派とネパール共産党統一センター・マサル派が合同し、ネパール共産党統一毛沢東主義派(統一毛派)となる。
- 3月2日 – 統一毛派、145条からなる新憲法草案を発表。
- 5月3日 – プラチャンダが毛派民兵組織の扱いを巡り対立していたルークマングド・カタワル陸軍参謀総長を解任。これに対し連立与党、野党、国軍が一斉に反発。ヤーダブ大統領、解任を取り消し首相を非難。
- 5月4日 – プラチャンダが首相辞任。連立政権崩壊。
- 5月23日 – マーダブ・クマール・ネパールが首相に選出される。
- 2010年
- 6月30日 – マーダブ・クマール・ネパールが辞任を表明。しかし、後継首相を選ぶための制憲議会の首班指名選挙で誰一人過半数を獲得出来ず、同年9月まで8回の選挙が繰り返し行われた。
- 12月11日 – 元国王・ギャネンドラの長男の元皇太子・パラスが泥酔、副首相・スジャータ・コイララの娘メラニー・コイララ・ジョストの婿と口論した末に発砲した容疑で逮捕されたが、三日後の裁判前に双方から発砲は無かったという発表があり釈放された。政治の混乱が続き王制復活への期待が出始めた矢先の出来事であった。
- 2011年
- 1月3日 – マーダブ・ネパールの引退表明から後任が決まっていなかった首相職にジャラ・ナート・カナールが指名されたが、混迷を収拾できず同年8月14日に辞表を提出した。
- 8月29日 – ネパール共産党統一毛沢東主義派のバーブラーム・バッタライが首相職に指名され、プラチャンダ内閣内閣以来2年ぶりに統一毛派政権となった。
- 11月1日 – ネパールの主要政党が歴史的な和平プロセスに合意したと、統一毛派のスポークスマンDinanath Sharmaが発表した。
- 12月2日 – 統一毛派内部で主流派のプラチャンダと強硬派のキランの間で、マオイスト軍戦闘員の内何人を国軍であるネパール軍に統合するか合意し、2,500人の更なる上積みを要求したところ、議会がこれを拒否し、Krishna Sitaula事務局長が「人数を増やして合意することは不可能だ。12月15日までの合意を不可能にするものである。」と指摘した。また、この動きで主流派内での権力争いはバッタライからプラチャンダに戻ったと観測されている。
- 12月16日 – 合意が任期内に出来ず、議会の会期延長が決定し、6ヶ月後の2012年5月13日までに全ての手続きを完了することになった。
- 2012年5月- 合意が任期内に出来ず、制憲議会の任期満了。バッタライ首相は11月に選挙を行うとしていたが、政党間の調整がつかず失敗。
- 2013年
- 2月11日 – 主要政党が5月29日までに制憲議会選挙を行うことで合意。
- 3月14日 – 制憲議会再選挙実施のための選挙管理内閣発足。「内閣の議長」は最高裁長官であったキル・ラージ・レグミ。
- 7月6日 – 選挙管理内閣、制憲議会選挙を11月19日に行うと閣議決定。
- 11月19日 – 制憲議会選挙。ネパール会議派が第一党になり、毛派は大敗。毛派は不正選挙であると主張している。
- 2014年
- 1月 – 制憲議会開会
- 2月 – ネパール会議派の新政権発足。首相はスシル・コイララ。
- 2015年
- 4月25日 – 首都カトマンズ北西約80kmを震源とするマグニチュード7.8の地震発生(ネパール地震 (2015年))。
- 9月20日 – 2008年から制定作業を続けてきた制憲議会により憲法が公布された。
- 2017年
- 2017年5,6,9月 – 地方選挙を3回に分けて実施
- 2017年11,12月 ‐ 州・連邦下院議会選挙実施
- 2018年3月 – オリ(UML党首)政権発足
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