2021/04/03掲載

先史時代から古代国家の成立まで

タイの歴史は、先史時代の遺跡が数多く出土するイサーン地方(タイ東北部)からはじまる。

なかでも紀元前3600年ごろから紀元後3世紀にかけての集落跡とされるウドーンターニー県のバーンチェン遺跡は、世界史上でも比較的早期の農耕文明を持ち、東南アジアで最も重要な遺跡のひとつとして世界遺産にも登録されている。

時代が下って6世紀から11世紀ごろにかけては、モーン族による都市国家、ドヴァーラヴァディー王国がチャオプラヤー川沿いのナコーンパトム県を中心としたタイ中央部、そしてランプーン県を中心としたタイ北部に成立。

また9世紀になると、現在のカンボジア付近にあったクメール王朝がタイ東北部へ勢力を拡大し、その支配が13世紀初頭まで続いた。

かつてはタイ族の起源は中国から南下した民族であるとされていたが、以上のような先史時代の遺跡、またドヴァーラヴァディ王国やクメール王朝などの史料から、現在その説は否定されている。

スコータイ王朝

クメール王朝の支配が弱まってきた13世紀初頭、その配下にあったタイ人土侯がクメール人勢力を駆遂し、現在のスコータイとシーサッチャナーライ両都市を中心とした地域に「幸福の夜明け」(スコータイ)と名づけた王朝を築いた。

これがタイ族による国家のはじまりである。

当初スコータイ王朝は、同時期に同族の土侯によって現在のチェンマイを中心に建設されたランナー王朝と同盟を結んでいたが、第3代ラームカムヘーン王は陶器の生産や森林物産などを背景とした諸外国との貿易で経済力を高め、やがてランナー王朝など周辺国家をその支配下におく。

また数多くの寺院建設を行って上座部仏教の布教に尽力したほか、タイ文字の考案(1283年)など、現在のタイ文化の基礎を築き上げた。

スコータイ王朝は約200年、9代にわたって続いたが、15世紀中ごろにはチャオプラヤー川沿いに台頭していたアユタヤ王朝の属国となり、ひとつの時代に幕が下りることになる。

また同時期に北部のランナー王朝もビルマの属国となった。

アユタヤ王朝

タイ中央部では、1351年にチャオプラヤー川流域にあったロッブリーとスパンブリーが統合され、アユタヤ朝が成立した。

アユタヤはその恵まれた立地条件を背景に、周辺の農村や森林地帯から集積する物資の交易拠点として繁栄し、隣国スコータイを併合、さらに東北部を支配していたクメール王国へも侵攻して、1431年にはその王都アンコールを陥落させた。

その後、隣国のビルマとの戦争に敗れ属国となった時代もあったが再び盛り返し、17世紀ごろにはオランダやフランス、日本など世界各国からの商人が渡来、アユタヤはヨーロッパと東アジアを結ぶ国際交易港、またシャム国(当時のタイの呼称)の首都として隆盛を極めた。

末期は内乱が続き、1767年にはついにビルマのコンバウン王朝の侵略を受けて417年におよぶ長い歴史に終止符が打たれる。

しかし、王室儀礼や宮廷文化、官僚制度をはじめとする政治体制、さらに諸外国との交易を重視する政策などは、ラッタナコーシン(バンコク)王朝に引き継がれていく。

トンブリー王朝

当時タークの国主だったタークシン王は、1767年にビルマの侵攻をうけて廃墟となったアユタヤからビルマ軍を撃退し、同年トンブリー(現在のバンコクのチャオプラヤー川を挟んだ対岸)に住居を構えて王に即位、ここにトンブリー王朝が築かれた。

しかし敵対する各地の国主の討伐や、その後もタイを狙うビルマ軍との防衛戦、さらに繰り返されるカンボジアへの侵攻など戦争が続き、それに不満をもつ当時サムハナーヨック(首相に当たる地位)であったチャオプラヤー・チャクリー(後のラーマ1世)らによって1782年にタークシン王はその位を剥奪され、処刑される。

こうして、戦争に明け暮れたトンブリー王朝は15年という短命に終わった。

ラッタナコーシン王朝

1782年、チャオプラヤー・チャクリーはタークシン王の王位を剥奪して内乱を鎮めた後、チャオプラヤー川を挟んだトンブリーの対岸にあるラッタナコーシン島に新しい都を建設、ラーマ1世として王に即位した。

これが現在も続くラッタナコーシン王朝(チャクリー王朝またはバンコク王朝とも呼ばれる)の始まり。

当初はアユタヤ王朝と同様に中国との貿易を重視しつつ、地方については封建制による統治を行っていたが、ヨーロッパの列強が押し寄せ、ビルマやラオス、カンボジアなど近隣諸国が相次いでイギリスやフランスの植民地となったラーマ4世(在位1851–1868)やラーマ5世(在位1868–1910)の時代にその方針を転換。

イギリス、アメリカ、フランスなどと通商貿易条約を結び、中央集権的な絶対王制のもと、行政組織の改革や鉄道・道路の敷設、電気や電報事業などの近代化が行われた。

それらの努力と巧みな外交政策の結果、タイは列強の侵略から東南アジアで唯一独立を守り通すことができた。

しかし、官僚や軍部らによる1932年の立憲革命により、王は象徴的な存在として憲法に定められ、政治には直接関わらない立憲君主制へと移行した。

さらにその7年後の1939年にはシャム国から「タイ王国」と呼称を改め、現在に至っている。

第一次世界大戦

1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると、タイは直後の8月6日に中立を宣言して戦況をうかがい、その後、1917年4月のアメリカ参戦により連合国が有利と見極めたラーマ6世は、7月22日に連合国側としてドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦した。

これにより列強諸国と並んだとして、同年9月28日、タイの国旗を連合国のイギリス・フランス・アメリカの国旗の色とも一致する現在の3色旗に変更した。

タイはヨーロッパに自動車輸送部隊と飛行部隊となる遠征軍を派遣し、輸送部隊の一部はフランス軍とともに一時ドイツの戦地に配備された

この参戦により戦勝国の地位を得たタイは、1919年のパリ講和会議に列席し、国際連盟にも参加した後、イギリスやフランスなどと結ばれた不平等条約の改正を進め、1937年にはこれらの条約がすべて改正された。

タイの遠征軍(1919年、パリ)

タイの遠征軍(1919年、パリ)

立憲革命

1925年にラーマ6世の末弟がラーマ7世として王位を継承すると、前王の近代化政策による財政悪化の改善を図ったが、1929年に始まった世界恐慌をきっかけにタイの財政が再び悪化し、絶対王政に対する不満が高まっていった

1927年、ヨーロッパに留学していた学生7人により、タイの政治体制の変革を目指して結成された人民党が、1932年初頭、立憲改革をもくろむ軍の内部グループと結束し、同年6月24日、バンコクでクーデターによる「立憲革命」を決行した

ラーマ7世は人民党の要求を受諾し、6月27日に臨時憲法が制定されたことで、王や王族は存続するものの、タイの政治体制は絶対君主制(絶対王政)から立憲君主制へと移行した

これに基づき直ちに翌28日、国会として人民代表議会が開会されたが、議会は一院制であり、全員が人民党の任命議員であった

この議会において同日、王室との仲介役として非人民党員のプラヤー・マノーパコーンが首相に選出された

また、12月10日には新憲法が公布されたが、この恒久憲法も実質的に10年後の選挙まで人民党単独政権を確保できるものであった

立憲革命の後、翌1933年には人民党を主導する急進派の政策案により穏健派との決裂が生じたことで早くも政情が不安定となる。

6月20日、一部急進派と人民党派軍部がクーデターを起こし、その指導者として擁立されたブラヤー・パホンが首相に就任した

これに対して10月11日、元陸軍大臣のボーウォーラデート親王の反乱により東北部の軍が進攻したが失敗し、親王はフランス領インドシナに亡命した

また、人民党政府に反発したラーマ7世も、1935年3月、当時9歳の甥ラーマ8世に王位を譲った

その後、人民党の当初からの構成員であり、1933年のクーデターの中心にもいたピブーンソンクラームが実権を握り首相に就くと、1939年6月、国名を「シャム」から「タイ」に変更した。

立憲革命時のアナンタサマーコム殿(バンコク)

立憲革命時のアナンタサマーコム殿(バンコク)

第二次世界大戦

1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、直後にタイは中立宣言を出したが、1940年9月に日本軍がフランス領インドシナに進駐すると、ピブーンソンクラームはこの変化を機にフランス領インドシナと国境紛争を起こした

タイの要求を拒否したフランスは11月28日にタイ側を空爆し、タイ・フランス領インドシナ紛争の開戦となった。

翌1941年1月にはフランスの優勢が見えたが、タイは日本の仲介により、5月9日にフランスと東京条約を締結し、1904年と1907年にタイが割譲した領土のほとんどを自国領として併合するに至った

1941年12月8日の日本軍の進路

1941年12月8日の日本軍の進路

その後、1941年12月8日、イギリスやアメリカなど連合国に宣戦した日本軍が、イギリスが支配していたマレー半島へ向かい(マレー作戦)、イギリス領マラヤのコタバルと同じく、タイ南部のソンクラーやパッターニーに上陸した(第一次マレー上陸作戦)。

タイ軍らは抗戦を開始したが、同日、タイは日本軍の通過を認めた

12月11日に日本と協定を結んだ後、日本軍の緒戦の勝利を背景に、21日には正式に日泰攻守同盟条約を締結し、日本の同盟国となった

その翌年の1942年1月8日にイギリス軍がバンコクを爆撃したのを機に、1月25日、ピブーンソンクラームはイギリスとアメリカに宣戦布告し、タイは枢軸国として参戦することとなった

イギリス統治下のビルマに日本軍が進攻を開始すると、タイは領土の拡大を目指して1942年5月に北部より進軍し、ビルマ東部のシャン州を占領した

また、日本軍はタイのノーンプラードゥックとビルマのタンビュザヤの延長415キロメートルを結ぶ泰緬鉄道の建設を1942年6月に着工し、翌1943年10月に開通させた

領土獲得を期待したタイは、当初、同盟を結んだ日本の過大な要求にも応じていたが、その後、タイは日本の一方的な権益拡大に対して不信を強めていった

一方、日泰攻守同盟条約をもとに、タイが日本の同盟国になり日本軍を駐留させるのを見て、当時、駐米大使であり後に首相になるセーニー・プラーモートは、1942年3月、「自由タイ」という抗日運動をアメリカでタイ人外交官や留学生らと組織した。

この活動はイギリスのタイ人留学グループにまでおよび、イギリスは自由タイの志願者をイギリス兵として受け入れ、特殊訓練を施して情報機関員を養成した

また、タイ国内においても、ピブーンソンクラーム内閣の閣僚であるプリーディー・パノムヨンが抗日組織を設けて参加し、連合国側との連絡を図っていた

1943年12月-1944年1月には連合国軍の空爆が本格化し、戦局の悪化とともに、プリーディーによる自由タイ運動は活発化し、1944年7月にピブーンソンクラーム内閣が総辞職したことで、クアン・アパイウォンの新内閣が成立した。

クアン内閣は閣僚に自由タイの指導者3人が入閣するなど、急速に連合国との関係を強めたが、日本に対しては自由タイ運動の支援などないように振る舞っていた

しかし、1945年には国内各地に自由タイの軍事キャンプが、日本軍への攻撃に向けて設営されていった。

戦後

日本との衝突の直前に、日本が1945年8月に連合国に対して敗北すると、8月16日にプリーディーは「タイの宣戦布告は無効である」と宣言し、イギリスに対しては、日本より移管されたシャン州やマラヤの州を返還することを表明するなど、連合国との敵対関係を終結させようとした。

アメリカは直接的に利害関係のないことから、8月21日、タイは日本の占領国であったとして、この宣戦無効宣言を受け入れたが、イギリスはすぐに応じず占領軍を派遣することとなった。

これを考慮して、総辞職したクアン内閣に代わり、駐米大使で自由タイを組織しアメリカおよびイギリスとも関係の深いセーニー・プラーモートが選挙により首相に就いた

その間、9月2日にイギリス領インド軍2万7000人が到着し、日本軍の武装解除が進められた。

その後、アメリカの支援のもとにイギリスと交渉した結果、1946年1月に宣戦布告の無効を確認し、原状復帰および領土の返還などの諸条件により平和条約が締結された

タイが1941年より併合し、戦後1946年、フランスに返還した3県

タイが1941年より併合し、戦後1946年、フランスに返還した3県

5月に領土の返還を求めるフランスがタイ領を攻撃し、国際社会への復帰を優先せざるを得ないタイは、1941年に併合した領土の引き渡しに応じ、ナコーン・チャンパーサック県ピブーンソンクラーム県プレアタボン県の3県がフランスに返還された。

これにより1946年11月、フランスとも終戦協定が成立することになる

タイの領域は1909年に定められた状態に戻ったが、巧妙な政治手腕により、タイは連合国による敗戦国としての状況を早期に免れた

1945年に成人したラーマ8世は、12月にスイスより帰国したが、1946年6月9日、額を銃弾が貫通した不可解な状況で死亡した

変死したラーマ8世に続いて18歳で即位した弟のラーマ9世は、タイ王国で最も長く王位に就き、タイ国民に非常に人気のある君主となった

軍事政権

1947年11月、ピブーンソンクラーム退陣以来冷遇されていた陸軍による軍事クーデターが発生し、プリーディーは国外に亡命した

国軍司令官となったピブーンソンクラームは、翌1948年4月、陸軍の圧力により、「ピブーンの復活」と呼ばれるピブーンソンクラームによる軍事政権が開始された

一方、1949年2月のプリーディーと海軍によるクーデターは失敗し、自由タイは終焉を迎えた

1949年3月、「永久憲法」が公布されたが、1951年6月に海軍によるクーデターを再び鎮圧するなど政情が不安定となるなか、1951年11月29日、自ら「銃声なきクーデター」により1932年恒久憲法を復活させ、議会や政党を廃止した

1957年9月、「兵士団」を率いたクーデターにより、暫定政権が誕生し、12月の総選挙によりタノーム・キッティカチョーン政権が成立した。

その後、1958年10月にサリット・タナラットによる軍事政権が誕生した

サリットは国王の威信回復を図る「タイ式民主主義」を説くことで強権的支配体制を正当化し、一方、国の開発を掲げてインフラストラクチャーの整備や高い経済成長を実現した

この時期、1961年のフォードの工場を初めとして、日本からの自動車メーカーも多く進出した

1963年12月にサリットが死去すると、「タノーム=プラパート体制」と称される長期軍事政権となった

冷戦

1949年に中華人民共和国が成立し、共産主義の拡大による東南アジアの冷戦期には、ベトナム(北ベトナム)およびラオス(パテート・ラーオ)、ビルマ(ビルマ式社会主義)、カンボジア(クメール・ルージュ)のような近隣諸国の共産主義革命に脅かされた。

また、国内においてもタイ共産党を中心として拡大する共産主義勢力に対抗し、タイは共産主義の防波堤としてアメリカの支援を受け、東南アジア条約機構の一翼を担った

ベトナム戦争ではアメリカ側に立ち、南ベトナムへの派兵を行い、北ベトナム爆撃のための供与として在タイ米空軍基地の開設も許可した

1966年4月にはウタパオ基地よりハノイに向けて爆撃機B52が進発した

タイはアメリカ軍の補給や兵の滞在のための後方基地であったため、タイは経済的に発展し、パタヤなどのリゾート開発も進んだ

ベトナム戦争が激化するなか、1967年8月8日に東南アジア諸国連合(略称: ASEAN)の設立がタイのバンコクにおいて宣言された

民主化運動

学生らのベトナム反戦運動を契機に、タノーム=プラパート政権の権威主義体制に反対する勢力が次第に増すと、1973年10月14日、ついにタマサート大学からラーチャダムヌーン通りにわたり集結した40万人余りのデモ隊と衝突した警察・軍の発砲により、死者77人・負傷者444人におよぶ大惨事が発生した。

この「十月革命」とも呼ばれる血の日曜日事件の勃発でタノームらは退陣し、国王ラーマ9世により、タマサート大学長であったサンヤー・タンマサックが暫定政権の首相に任命された

1974年11月に新憲法が制定され、翌1975年、ククリット・プラーモートが首相を務めた

1975年7月にアメリカ軍がタイから撤収した後、1976年には、学生・市民と右翼組織とが対峙して民主化運動の危機となった。

8月、プラパートの一時帰国に続き、僧となったタノームの帰国が引き金となり学生運動が暴発すると、10月6日に血の水曜日事件が起こり、警察・右翼集団らにより学生運動が弾圧され、死者46人におよんだ

そして、軍部がクーデターを宣言すると、反共主義をとるターニン・クライウィチエンがしばらく首相を務めた後、再びクーデターにより軍事政権期に入ることになった

調整型政治

1977年から軍最高司令官のクリエンサック・チョマナンによる政権が敷かれ、民主化の時代は終ったが、その政治は調整型の姿勢を取り民主化勢力との調和が図られた

一方、隣国カンボジアに誕生したポル・ポト政権は、1977年よりベトナム国境で紛争をしかけ、1977年末にはベトナムと国交を断交した

その後、1978年末から1979年初頭にベトナムがカンボジアに進軍したことから、多くのカンボジア難民がタイに逃れた

同じく1979年にはベトナムからのボートピープルも急増した

次いで、陸軍司令官であったプレーム・ティンスーラーノン政権時代は「半分の民主主義」などと称されるように、サリットのタイ式民主主義と同様、国王や軍の存在を前提としつつも議会制民主主義を重視し、タイ共産党勢力とも調整を図った。

これによりクーデター未遂事件などがあったものの比較的平穏であり、経済成長への道筋をつけた

ただし、ラオスとの国境においては、1980年6月14日、メコン川を挟んだタイ・ラオスの国境警備隊の間にて銃撃事件が発生したことより、タイは解除に動きつつあった国境封鎖に対して、再び歯止めをかけた

加えて1984年5月には、ラオスのサイニャブーリー県とタイのウッタラディット県の狭間に位置するラオス領の3つの村をタイ国軍が不法に占拠しているとして、領土権を巡る国境紛争が勃発した(三村事件)。

タイは同年10月15日、国軍が撤兵したとの声明を発表し、三村事件はいったん沈静化した。

その後、1987年12月に再びタイ・ラオス国境付近で両軍が衝突し、翌1988年2月まで戦闘状態に陥ったが、両国代表団により和平交渉が実施され、停戦協定が結ばれた

文民政権

1988年7月の総選挙で第一党となった国民党(タイ民族党)のチャートチャーイ・チュンハワン政権は、1976年の第3次セーニー内閣以来の文民政権であったが、好景気とともに政治的実業家による利権政治が蔓延した

一方、軍の権益を軽視したことにより、1991年2月23日に陸軍司令官スチンダー・クラープラユーンらが軍事クーデターを起こし、チャートチャーイは失脚したが、プレーム政権以来の民主化の定着やクーデター後の対外的な配慮などにより、外交官出身のアナン・パンヤーラチュンが推薦され、暫定政権として3月6日、一時文民政権が誕生した

1.暗黒の5月事件

アナン政権によりクーデター後も経済は順調に推移したが、1992年4月7日、首相に就任しないと明言していたスチンダー・クラープラユーンが首相に就き、新政権の成立したことに国民は反発し、4月下旬には辞任を要求する大規模運動に発展した

その後、5月17日の抗議デモにおいて40万人余りにのぼる群集に対し、ラーチャダムヌーン通りで衝突した軍・警察が、5月18日から19日にかけて暗黒の5月事件が発生した

これによりスチンダーは首相を辞任して、アナンが暫定政権の首相に復帰し、文民政権の樹立につながった

1992年9月の総選挙において、旧野党の民主党が躍進し、チュワン・リークパイ内閣となると、チュワンは王制を堅持する民主主義を唱えた。

1995年7月、国民党のバンハーン・シラパアーチャーが首相に就いた後、1996年11月には新希望党のチャワリット・ヨンチャイユットが首相となり、1997年7月からの通貨危機のなか、同年9月に新憲法が可決され翌10月に公布された後、経済危機により11月に辞職したチャワリットに代わり、民主党のチュワンが再び就任した

2.タクシン体制

2001年、経済情勢がいまだ通貨危機の影響にあるなか、新憲法のもとで総選挙が行われ、1998年にタイ愛国党を創設した中国系タイ人のタクシン・チナワットによる新政権が2001年2月に誕生した

タイが先進国となることを目指した実業家のタクシンは「国は企業であり、首相は国の最高経営責任者(略称: CEO)である」として、権力集中による強権的な政治運営を行ったが、一連の経済政策の成果などにより、2005年2月の総選挙においてタイ愛国党が圧勝した

政治混乱の現代

1.2006年クーデター

2006年1月、首相タクシン一族の不正蓄財疑惑が発端となり、「黄色のシャツ」を着た反タクシン運動が拡大すると9月19日に軍事クーデターが起こった

クーデターより12日後の10月1日には暫定憲法が公布され、陸軍総司令官であったスラユット・チュラーノンが首相に指名された

これ以降、タイではデモや暴動が相次ぎ、政治混乱が続く。

2006年クーデターの戦車部隊(9月19日)

2006年クーデターの戦車部隊(9月19日)

2.2008年政治危機

2008年2月に「タクシンの代理人」を標榜するサマック・スントラウェート内閣が成立すると、2月28日、元首相タクシンが帰国した。
民主市民連合 (PAD) は反タクシン運動を再開し、8月26日にはサマックの退陣を求める大規模活動を行い、首相府などを占拠した
これに対してタクシン支持派の反独裁民主戦線らは「赤色のシャツ」を着て民主市民連合 (PAD) に対抗し、9月2日の衝突においては政権派1人が死亡した

民主市民連合 (PAD) の抗議集会(2008年8月)

民主市民連合 (PAD) の抗議集会(2008年8月)

3.2009年政情不安

ソムチャーイ政権の崩壊後、民主党のアピシット・ウェーチャチーワが首相に選出されたが、今度は反独裁民主戦線 (UDD) がアピシットの所信表明を妨害し、2009年初頭より反政府集会を繰り返し実施した

4月11日にはパタヤで開催予定であった東アジアサミットの会場に乱入した

その後、バンコクでもデモ隊が暴動を起こしたことで軍が制圧を行い、負傷者100人以上となる事態が発生した

4.暗黒の土曜日

2010年、タクシン不正蓄財の没収判決を不当として、議会の解散と総選挙の実施を求める反独裁民主戦線 (UDD) の抗議活動が3月より再び活性化すると、3月14日にバンコクの大通りを占拠し、4月3日にはデモ隊が都心の商業地区一帯を占拠する事態となり、その後さらに拡大すると、治安部隊との衝突により4月10日、日本人カメラマンを含む死者25人・負傷者800人以上の大惨事となった(暗黒の土曜日)。

5.タイ洪水

2011年、タクシンの妹インラック・シナワトラがタイ史上初の女性の首相となると混乱は一時終息したかに見られた

しかし、8月のインラックの就任後すぐにタイ洪水という未曽有の危機に見舞われることとなった。

9月下旬、チャオプラヤー川より平野部に氾濫した流水は中部より次第に南下し、合計7か所の工業団地が水没した。

また、洪水対策センターを置くドンムアン空港が浸水する事態になったほか、水による感電死の多発により死者はタイ全土で800人以上を数え、洪水の被災者は26都県で200万人以上におよんだ

6.プレアヴィヒア紛争

タイとカンボジアの国境地域に位置するプレアヴィヒア寺院遺跡が2008年7月、カンボジアによりユネスコの世界遺産に登録されたことから、この寺院遺跡のある高台一帯を巡るタイとカンボジアの領域紛争が再燃した。

両国軍が国境地域で対峙し、2008年10月より散発した戦闘による死傷者は数十人におよんだ

2010年に後の首相となるプラユット・チャンオチャが陸軍司令官に就任している

2011年7月、国際司法裁判所が国境地域からの撤退を両国に命じ、インラックが首相に就任した後、同年12月、両国は同時撤退に合意した

その後、2013年11月に国際司法裁判所が1962年に次ぎ、プレアヴィヒア寺院一帯をカンボジア領としたことにより、一応の治まりを見せた

7.2013年反政府デモ

2013年11月、タクシンの恩赦を可能とするタイ貢献党議員による法案の強行採決が図られると、民主党は猛反発し、反タクシン派以外も多くがこれに抗議して反政府デモは勢いを強めた

8.2014年クーデター

2014年5月7日、インラックは政府高官人事の違憲判決により失職し、5月22日には国軍が再び立憲革命以降19回目のクーデターを起こした

軍が全権を掌握し暫定政権を立てた後、8月には最高権力者である陸軍司令官プラユット・チャンオチャが首相に就いた

2016年10月13日、王ラーマ9世が88歳で死去し、その後、64歳のワチラーロンコーンがラーマ10世として新国王に即位した

2017年4月に新憲法が公布されると、2019年3月の総選挙を経て、プラユットが継続して首相に就き、7月には新政権が発足した

【出典】

タイの歴史「ウィキペディア(Wikipedia)」

タイを知る(歴史)「タイ国政府観光庁」