2023年7月25日更新
マカオ半島の主な見所
マカオ半島は、中華人民共和国マカオ特別行政区にある半島。
ポルトガルの植民地として最も古く、最も人口の多い地域であった。
面積は8.5平方キロメートルで、本土の珠海市と接する。
また、マカオのタイパ島と三本の橋、嘉楽庇総督大橋、澳門友誼大橋、および西湾大橋によって行き来できる。
マカオの中心で、歴史地区は2005年7月に「マカオ歴史市街地区」として世界文化遺産に登録。
22の歴史的建造物、8カ所の広場の全30から構成されている。
中国様式とコロニアル様式が融合した、歴史的な建物が残る。
マカオ半島の地図
マカオ半島の歴史
ポルトガル人が海路で中国に到達したのは1513年でした。
1557年にポルトガルが明から居留権を得たことにより、マカオは、中国における唯一のヨーロッパ人居留地となった。
ただし、この時点ではマカオの領有権は中国にあり、中国がマカオに税関を設置するなど、主権は中国側が有していた。
この時点ではまだマカオはポルトガルの植民地ではなかったのです。
マカオは、日本が鎖国するまでは長崎との貿易で繁栄を極めていたが、その後は明清交替期の動乱や、広東(広州)の対外開放により貿易港としてのマカオは次第に衰えていった。
アヘン戦争の結果イギリスが香港島を獲得すると、ポルトガルも1845年マカオ自由港の成立を宣言して中国の税関官吏を追い出し、1848年、中国人による総督殺害事件を機に、タイパ島とコロアネ島を占領し、地租の支払いを停止し、マカオの行政権を取得。
1887 年、ポルトガルは清朝との間で香港からの阿片密輸防止に協力する見返りとして「友好通商条約」を締結、ポルトガルのマカオに対する行政権が法的に確立。
清朝はポルトガルがマカオを永久に占有し、第三国へ譲渡しないことを承認。
これをもって、マカオがポルトガルの植民地となった。
しかし、その時点ではすでに香港が繁栄しており、それによりマカオの貿易港としての地位は全く凋落してしまった。
その後1941年に起きた第二次世界大戦においてポルトガルは中立国となり、当時東南アジア全体を占領した日本とは交戦状態に入らなかったため、日本軍はマカオを占領せずに駐在武官を置くに止め、中立港として機能したが、中国本土から大量の難民が流れ込むことになった。
1949年には国共内戦に勝利した毛沢東によって中華人民共和国が設立され、中国共産党が中国本土を統治するようになったものの、マカオでは依然としてポルトガルの統治が続いた。
しかし、文化大革命さなかの1966年に起きた中国系小学校増築のトラブルをめぐって起きた、中国系住民による暴動の鎮圧の際、ポルトガル軍警察が多数の住民を射殺した。
これに怒った中華人民共和国政府が、ポルトガル政府に対して事件の謝罪と以後の中国系住民による統治参加を要求したところ、ポルトガル政府はそれらの要求をほぼ全面的に呑み、以後中華人民共和国の影響力が増すことになった。
オテロ・デ・カルバーリョ大尉率いる国軍左派による1974年4月25日のカーネーション革命の後に、ポルトガル政府は民主化され、全ての海外領土を放棄することになった。
その後1976年に、ポルトガル政府は新憲法において、マカオをそれまでの海外県から、「ポルトガル行政下にある領域」として再編成し、「マカオ組織章程」を制定、立法会も設置するなど、行政上及び経済上の自治を多くの点で認めた。
その後、1984年に行われたイギリスと中華人民共和国の香港返還交渉に続く形で、1987 年4月13日にポルトガルと中華人民共和国がマカオ返還の共同声明に調印したことで、マカオの行政権は1999年12月20日に中華人民共和国へ返還され、マカオを特別行政区にすることになった。
マカオ半島の観光ガイド
マカオ半島は、中国と陸続きになっておりポルトガル統治時代からマカオの主要エリアでした。
世界遺産に登録されている建物や広場など30もの物件がマカオ半島にある。
また展望台から街が一望できるマカオタワーも人気観光スポット。
マカオは、歴史市街地区として、旧市街全体が世界遺産に登録されている。
ポルトガルの人々によってもたらされた南欧風のカラフルな建築物やモザイクの石畳などと中国の伝統建築物が見事に融合している。
また、日本人の口にも合いやすいポルトガル料理が楽しめるレストランも数多く、美食の街でもある。