2023年4月15日更新

前期石器時代~鉄器時代 前8000年~後1~2世紀

最古の人類 – 約40~30万年前の地層からタムハイのタムクエン洞窟(ランソン省)で最古の人類(原人)の歯が発見された。

約10,000年 – 4,000年前 – ホアンビン、バクソン、クインバン、ハロン、バウチョーの洞窟から磨製石器(短斧・有肩石斧などの刃先を研磨した道具)、礫石器、骨角器が、バクソン、クインバン、ハロンからは土器や石製の鋤・鍬が見つかっている。

前8世紀~後1・2世紀の鉄器時代に生まれたドンソン文化の頃は、農耕生活を行い、首長が共同体を支配する階級社会を形成していた。

中国支配の時代 前111年~939年

漢の時代から唐までの中国王朝支配期。

ベトナム独立王朝~動乱時代 939年~1802年

呉朝、丁朝、前黎朝と短命の独立王朝が続いたのち、1010年に李朝がベトナム初の長期王朝となる。

都はハノイに定められた。李朝は豪族の連合政権的な性格が強く、中国から諸制度の受容を図るが、中央集権的な統治体制を築き上げるまでには至らなかった。

ハノイの名所である一柱寺(1049年)や文廟(1070年)はこの時代の創建。その後、1225年に陳朝が支配した。

1407年から1427年にかけてベトナムは明に服属していたが、黎利(黎太祖)によって独立が回復された(黎朝)。

ベトナム南部にまで勢力を拡大して繁栄したが、のちに北部の鄭氏政権と南部の阮氏政権(広南王国)へと分裂した。

阮朝時代 1802年~1945年

広南阮氏の生き残りだった阮福暎が、フランス人ピニョーの援助もあって武力をたくわえ、1802年に西山朝を滅ぼし、阮朝を建て、国号を越南国、都をフエに置き、清朝を宗主国としてベトナム統治を認められた。

ベトナムという国号はこの越南に由来する。 阮朝は清を宗主国としてその制度を採り入れ、科挙などを実施して国家体制を整えた。

ベトナム最後の王朝となった阮朝は、フランスの侵略を受けながら13代まで続いた。

阮朝王宮

阮朝王宮

仏領インドシナ時代 1882年~1945年

1862年にフランスと協定を結び、メコンデルタの一部割譲を認めたが、1882年にフランスがハノイを占領。

ベトナムの植民地化を図るフランスは、1883年の癸未条約・1884年の甲申条約によってベトナムを保護国化した。

ベトナムへの宗主権を主張してこれを認めない清朝を清仏戦争で撃破し、1885年の天津条約で清の宗主権を否定した。

1887年にはフランス領インドシナ連邦を成立させ、ベトナムはカンボジアとともに連邦に組み込まれ、フランスの植民地となった。

阮朝は植民地支配下で存続していた。1900年代になると、知識人の主導で民族運動が高まった。

ファン・ボイ・チャウは、日本に留学生を送り出す東遊運動(ドンズー運動)を展開した。

1917年にロシア革命によってソビエト連邦が成立すると、コミンテルンが結成され植民地解放を支援した。

こうした中で、コミンテルンとの連携のもとでの民族運動が強まった。

1930年にはインドシナ共産党が結成され、第二次世界大戦中のベトミン(ベトナム独立同盟)でもホー・チ・ミンのもとで共産党が主導的な役割を果たした。

1930年に、2月にグエン・タイ・ホックらベトナム国民党がイエンバイ省でイエンバイ蜂起を起こし、その後、ゲアン省とハティン省でゲティン・ソヴィエト(ベトナム語: Xô Viết Nghệ TĩnhNghe-Tinh soviet)の蜂起が起こった。

アジアの植民地

アジアの植民地

第二次世界大戦 1939年~1945年

1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1940年6月22日にフランスが降伏すると、同年9月には降伏を受け入れたヴィシー・フランス側の承認の下に、日本軍がフランス領インドシナに進駐した(仏印進駐)。

仏印進駐後のベトナムはヴィシー・フランスと日本による二重支配体制が敷かれた。

日本は「大東亜共栄圏」を主張したが、ベトナム帝国として形式的な独立を果たした日は、東京大空襲の翌日に当たる1945年3月11日であった。

このベトナム帝国の成立は、阮朝が王政復古を果たした日でもあった。

1944年秋から1945年春にかけて、ベトナム北部を中心に激しい飢饉が発生した(1945年ベトナム飢饉)。

北部の凶作、収穫米の強制買い付け制度、戦略爆撃によって鉄道網が寸断されたこと、そして日本軍とフランス政庁が有効な対策を取ろうとしなかったことなどが原因で40万から200万人に及ぶ人々が餓死した。

飢饉の原因と死者数については様々な意見がある。

フランスの植民地支配からの解放軍を自称していた日本に対する期待は完全に失われ、ベトミンの勢力が伸長するきっかけとなった。

8月14日に日本が降伏を予告すると、1945年8月14日から15日にインドシナ共産党の全国大会がタンチャオ(トゥエンクアン省)で開かれた。

そこで、全国的な総蜂起が決定され、全国蜂起委員会が設立された。委員会は軍令第1号として全人民に決起を呼びかけた。

次の16日に各界・各団体・各民族の代表が出席する国民大会が同地で開かれた。

大会は全会一致で総決起に賛成し、ベトナム民族解放委員会を設立し、ホーチ・ミンを主席に選出した。

同主席は全国民に書簡で総決起を呼びかけた。

その3日後にベトナム八月革命が勃発し、ベトナム帝国皇帝バオ・ダイは8月30日に退位を宣言した。

そして、9月2日には、ホー・チ・ミンは臨時政府を代表してベトナム独立宣言を厳かに読み上げ、国民と世界に向けてベトナム民主共和国の誕生を宣言した。

ホーチミン像

ホーチミン像

南北分断国家時代 1945年~1975年

1945年9月2日、日本の降伏によって第二次世界大戦は終わり、直ちにホーチミンを首班とする政府を樹立して独立を宣言したが、ベトナムは冷戦による分断世界の巷に巻き込まれた。

大日本帝国に勝利した連合国側は先ず中英が進駐し、続いてフランスが進駐し傀儡政権を樹立、再度ベトナムを植民地化し、これに対する第一次インドシナ戦争が始まった。

フランスは次第に追いつめられ最終的にディエンビエンフーの戦いに敗れて終結し1954年7月21日、ジュネーヴ協定の調印で決着した。

この協定の調印によって、北緯17度線を境に両軍の兵力分離を図り全国統一選挙を実施することになったが、フランスの後を継いだアメリカがジュネーブ協定には参加せず協定の統一選挙実施をサボタージして傀儡政権維持を図ったことでベトナムは完全に南北に分断された。

そして、1965年2月7日、アメリカ軍による北爆によってベトナム戦争が始まった。

ベトナム戦争の終わりは、1975年4月30日のサイゴン陥落によって、親米政権が倒された時であった。

尚、日本との和解は、ベトナム共和国(南ベトナム)が1959年、ベトナム民主共和国(北ベトナム)が1973年であった。

ベトナム社会主義共和国の誕生 1975年~

ベトナムの現代は、1976年7月2日に、ベトナム社会主義共和国が成立して、統一ベトナムが実現した事に始まる。

1993年2月にはフランスとの和解を果たした。

そして、1995年7月28日には東南アジア諸国連合に加入し、その直後の8月5日にはアメリカ合衆国との和解を果たした。

さらに詳しく知りたい方は、下記を参照して下さい。

出典 ベトナムの歴史「ウィキペディア(Wikipedia)」

旅行前にベトナムの歴史を学習!

世界史の窓

ベトナムの歴史:入門書