2023年11月15日掲載

エッサウイラ

エッサウイラ

6.テトゥアン旧市街  مدينة تطوان القديمة

テトゥアンは、モロッコ北部にある町。

「白い鳩」の異名を持つ。

モロッコの地中海側にあり、北に40kmほどのところには地中海と大西洋を分かつジブラルタル海峡がある。

タンジェからは東へ60km、メディックから南へ10km、ジブラルタル海峡に面したスペインの飛び地セウタからは南へ40km。

町の周辺には主要道路が通っており、中心部の6km東にはサニア・ラメル空港がある。

人口は2004年国勢調査で320,539人。

1997年に「テトゥアン旧市街」(テトゥアンのメディーナ)がユネスコの世界遺産として登録された。

ベルベル語では「ティタウィン」と呼ばれていた。

ティッタウィンとはベルベル語で「目」を意味するが、この地に湧く泉の比喩表現である。

現在では、「ティトゥアン」などとも表記されている。

白い壁の家が多く、市街地などでは家々が密集している地域が多い。

特にメディーナと呼ばれる旧市街地は低層の白い家々が立ち並び職人らが多く住み、この部分が世界遺産となっている。

住所:モロッコ [地図]

登録年: 1997年
登録区分: 文化遺産

行き方:日本からはヨーロッパやアジアの主要都市空港を経由して、まずはモロッコ最大の都市「カサブランカ」向かいましょう。

さらに国内便でテトゥアン空港へ向かい、そこからバスなどで移動することになります。

またモロッコ北部の国際都市タンジェにあるタンジェ空港からも車で1時間30分程度ですよ。

さらにはスペインからもアクセス可能です。

南部アルヘシラスからフェリーでタンジェかセウタへわたり、バスかタクシーを利用しましょう。

スペインから日帰りで世界遺産テトゥアン旧市街を訪れるツアーもあるそうですので、スペイン旅行にあわせて訪れることもできます。

外務省海外安全ホームページでは十分注意地域となっています。(2023年10月現在)

現地に行く時は、最新情報を確認してください。

参考URL:レコンキスタがもたらした世界遺産・テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン)

テトゥアン旧市街まで行って下さい。  الذهاب إلى مدينة تطوان القديمة.

テトゥアン旧市街はどこですか?  أين تقع مدينة تطوان القديمة؟

出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

7.エッサウイラのメディナ(旧名モガドール)  مدينة الصويرة (موكادور سابقا)

エッサウイラは、モロッコ王国のマラケシュの西の大西洋岸の港湾都市。

2001年に旧市街(メディナ)が世界遺産に登録された。

周辺の砂丘群にはBassia tomentosa(ポルトガル語版)Polycarpaea nivea(英語版)Helianthemum canariense(英語版)などのマカロネシアの固有種の植物が生え、北アフリカで珍しい7種の爬虫類と両生類が生息している。

沖合の島々は渡り鳥の重要な中継地で、エレオノラハヤブサの営巣地でもある。

一帯は2005年にラムサール条約登録地となった

歴史は古く、沖合いのモガドール島からローマ時代のヴィラが発見された

現在の町並みが形成されたのは1765年からで、その港により漁業、商業の中心地と位置づけられる

21世紀現在は世界遺産であるとともに、リゾート地としての側面と芸術の町という評価もあわせ持つ

住所:モロッコ [地図]


登録年: 2001年
登録区分: 文化遺産

行き方:日本からモロッコへの直行便はないので、パリ・ローマ・フランクフルトなどのヨーロッパ主要空港、またはドバイやアジア諸都市での乗継が必要です。

最寄り空港はマラケシュにあり、そこからエッサウィラまでは約200km。所要時間は約3時間です。

マラケシュからはバスも出ていますので、是非ご利用ください。

朝早く出る日帰りツアーも人気です。

またモロッコ最大の都市カサブランカからですと、車で6時間ほどかかります。

外務省海外安全ホームページでは十分注意地域となっています。(2023年10月現在)

現地に行く時は、最新情報を確認してください。

参考URL:カモメが舞い踊る美しいモロッコの港町 世界遺産エッサウィラのメディナ

エッサウイラのメディナまで行って下さい。  الذهاب إلى مدينة الصويرة.

エッサウイラのメディナはどこですか?  أين تقع مدينة الصويرة؟

出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

8.マサガン(アル・ジャディーダ)のポルトガル様式市街  مدينة ماساكان (الجديدة) ذات الطراز البرتغالي

アル・ジャディーダは、カサブランカと96km離れた沿岸部にあるモロッコの都市で、アル・ジャディーダ州の州都。

歴史上、アル・ジャディーダは、モロッコ人、古代ローマ人、ポルトガル人などがめいめいに呼んできたため、いくつかの異称を持っている。

マザガン(マサガン)もその一つである。

この町の最古の言及者は、カルタゴの航海者ハンノである。

その数世紀後には、プトレマイオスが、彼の緯度表記でいうところの6度40分に位置する港ルシビス (Rusibis) に言及しているが、これは現在の北緯32度10分に位置するアル・ジャディーダに対応している。

時代が下ると、戦略的重要性からポルトガル人がこの町を占拠した。

彼らは、1506年頃にマサガン砦を築き、1542年には町自体が要塞化され、分厚い壁がぐるりと取り囲む堅牢なシタデル(城塞都市)となったのである。

モロッコは長きに渡って町からポルトガル人を追い出そうとし、2世紀の間、絶えず攻撃を仕掛けたが、都市はこれに抵抗した。

ポルトガル人はこの攻撃に長く持ちこたえるために水を蓄える必要があったことから、穀物庫を貯水槽に変えることを余儀なくされた。

しかし、1769年にシディ・モハメド・ベン・アブダラ (Sidi Mohamed Ben Abdallah) によって都市は陥落し、ポルトガル人は撤退した。

なお、最後の攻撃に先立って、現地責任者は都市から撤退するように命令を受けており、全ての城壁に爆薬を仕込んでいったため、城壁が壊れた際の一連の爆発で攻撃側の多くの犠牲者が出た。

この時期から19世紀初頭までは、アル・ジャディーダはマフドゥマ (Mahdouma) という名だった。

1832年にスルタンのアブデラフマーヌ (Abd al-Rahman) が城塞の再建を決めるとともに、町の名前をアル・ジャディーダ(「新しいもの」)と改称した。

19世紀後半にはアル・ジャディーダの旧市街にユダヤ人たちが押し寄せてユダヤ人街を形成したが、1950年代に退去した。

フランスの保護下にあった1912年に、町は再びマザガンと改称した。

その後都市は急速に膨張し、ポルトガル人が築いた城塞都市の外に新市街を形成していった。

フランス人は、この美しい町、特に穏やかな気候と美しい砂浜に魅せられたので、町は海水浴場として賑わった。

モロッコが独立した1956年に、町は再びアル・ジャディーダと改称した。

今日のアル・ジャディーダはポルトガル人が築いた城塞都市を訪れる歴史愛好家、オーソン・ウェルズの足跡を辿る映画ファン、そして数え切れない避暑客たちを引き寄せる都市となっている。

また、毎年8月には10万人以上の人出で賑わう祭り (moussem de Moulay Abdellah Amghar) が行われる。

[地図]

登録年: 2004年
登録区分: 文化遺産

行き方:世界遺産の都市アル・ジャディーダへは、モロッコ国内各地から電車やバスでアクセスできます。

日本からは乗継便でカサブランカやラバト、マラケシュへ。

カサブランカのCasablanca Port駅及びCasablanca Voyageurs駅からアル・ジャディーダ駅へは1時間30分程度です。

ただし、アル・ジャディーダ駅は世界遺産の旧市街から少し離れているので、駅からタクシーを利用するのがおすすめ。

またアル・ジャジーダへのバスも、カサブランカ、ラバト、マラケシュから出ています。

発着場所は旧市街地から徒歩15分程度。

日帰りツアーもあるので気軽に訪れることができます。

外務省海外安全ホームページでは十分注意地域となっています。(2023年10月現在)

現地に行く時は、最新情報を確認してください。

参考URL:海辺の要塞!世界遺産マサガン(アル・ジャディーダ)のポルトガル様式市街

アル・ジャディーダまで行って下さい。  من فضلك اذهب إلى الجديدة.

アル・ジャディーダはどこですか?  أين تقع الجديدة؟

出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

9.近代的歴史都市ラバト  الرباط المدينة التاريخية الحديثة

ラバトは、アフリカにあるモロッコ王国の首都。

市の人口は65万人、都市圏では180万人(2010年)。

ラバトとは「駐屯所」の意味である。

人口ではモロッコ最大の商業都市カサブランカなどに次ぎ第5位の都市として、また首都としての機能のため、外国公館も存在し来訪者も多い。

シェラ(شالة, Chellah)というネクロポリスがブー・レグレグ川の両岸に残っている。

これらは紀元前3世紀のもので、この頃には既に定住が行われていた。

ローマ帝国は紀元40年に現在のモロッコにあたるこの地域をマウレタニア・ティンギタナ属州として帝国内に組み込み、シェラをローマ人の定住地に変え、サラ・コロニアと呼ぶようになる。

250年まではローマの植民市の状態が続き、その後この地を放棄した。

1146年、ムワッヒド朝のアミール・アブドゥルムウミンは11世紀に造られたリバートをスペインへの攻撃拠点とするべく大規模な城塞に改築した。

1170年には(勝利の陣屋)と名づけられ、ここから現在の市名が由来する。

ヤアクーブ・マンスールは都をラバトに移し、城壁やウダーヤのカスバを建設した。

マンスールは世界最大級のモスクの建設などにも着手したが、マンスールの死によって完成を見なかった。

世界最高のミナレットも完成せずハサン塔として現存している。

その後ラバトは低迷期を迎える。

ムワッヒド朝はイベリア半島の、次いでマグリブでの領地を次々に失い、13世紀には経済の中心もフェズに移った。

1515年、この地を通ったムーア人の探検家は「ラバトには100世帯しか残っていない」と記しているほどラバトは衰退した。

17世紀、スペインを追放されたモリスコたちが入植し、ラバトの復興の土台となった。

1627年、ラバトとサレは「ブー・レグレグ共和国」を発足させた。

この国はコルセア(海賊)によって運営され、ラバトとサレは海賊行為の出撃拠点となった。

1666年、アラウィー朝(今日まで続くモロッコ王室)がモロッコを統一するが海賊国家の制圧には失敗し、ブー・レグレグ共和国は1818年まで存続した。

またこの地の海賊も1829年にオーストリア船が海賊に攻撃された報復でオーストリア軍がラバトを砲撃して打撃を与えるまで健在だった。

1912年、フランスがモロッコに侵攻しフランス保護領モロッコとすると、総督のウベール・リヨテ将軍は政情不安なフェズからラバトに都を移すことを決め、スルターンのベンユースフ・ハッサーンは遷都した。

1913年、ウベール・リヨテはフランス人都市計画家のアンリ・プロストに命じ、ラバトの行政地区の都市設計を行わせた。

これが現在のラバトの市街地である。

モロッコが独立を成し遂げると1956年、スルターンのムハンマド・ベンユースフ(ムハンマド5世)は都をそのままラバトとする決定を行った。

第二次世界大戦後、アメリカがフランスの空軍基地址に駐留した。

この「ラバト・サレ空軍基地」には米軍の戦略航空軍団が置かれた。

独立後は、1958年のレバノンでのイスラム教徒の内乱にアメリカ海兵隊が介入したこともあってムハンマド5世は米軍の撤収を要求、1960年代に米軍は撤収した。

2012年にハサン塔や旧城壁・城門を含む伝統的なイスラム風の旧市街およびモロッコの王室・行政地域、住宅地・商業地域、デセ植物園、遊園地を含む西洋モダニズム風の新市街は世界遺産に登録された

住所:Bd Mohamed Lyazidi, Rabat, モロッコ [地図]

登録年: 2012年
登録区分: 文化遺産
営業時間:06:30~22:45

行き方:モロッコの首都ラバトの郊外にはラバト=サレ空港がありますが、日本からの直行便はありません。

パリやアムステルダム、マドリードなどを経由することになります。

ラバト=サレ空港から世界遺産のラバト市街までは、タクシーで20~30分程度です。

ラバト市内は近代的なトラムがあるので、世界遺産の町の散策も便利です。

モロッコのハブ空港はカサブランカのムハンマド5世国際空港なので、こちらからモロッコ入りするルートもおすすめです。

やはり日本からの直行便はありませんが、就航本数はラバト=サレ空港より格段に多いので、経由便の選択肢もたくさんあります。

カサブランカからラバトまでは、鉄道で約1時間。カサブランカに宿泊してラバトへ日帰りすることも可能です。

外務省海外安全ホームページでは十分注意地域となっています。(2023年10月現在)

現地に行く時は、最新情報を確認してください。

参考URL:世界遺産のモロッコの都「ラバト:近代的首都と歴史的都市が共存する遺産」

ハサン塔まで行って下さい。  اذهب إلى برج الحسن.

ハサン塔はどこですか?  أين يقع برج الحسن؟

出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』