2022年10月20日更新

ポンペイ
26.ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域 Aree Archeologiche di Pompei, Ercolano e Torre Annunziata
ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域は、西暦79年のヴェスヴィオ山の噴火によって埋もれてしまったポンペイやヘルクラネウム(現・エルコラーノ)の都市遺跡およびトッレ・アンヌンツィアータのヴィラの遺跡を対象とするUNESCOの世界遺産である。
1997年の世界遺産委員会ではイタリアの世界遺産が10件登録されたが、これはそのうちの1件である。
紀元前6世紀に建設されたとされるポンペイは、紀元前80年以降ローマの傘下に入った。
当時のポンペイは海に面した港町で、ローマの文化が多く流入する中で発展していた。
港は地中海貿易の拠点として栄え、長らく噴火のなかったヴェスヴィオ山の斜面ではブドウなどの栽培が営まれていた。
ポンペイでは羊毛加工と並び、ワインの醸造が主要な経済活動のひとつとなっていたのである。
しかし、1世紀には地震が頻発するようになり、西暦62年2月に、その中でも特に規模の大きい地震が一帯を襲い、ポンペイのみならず、近隣の高級保養地ヘルクラネウムなどにも大きな被害をもたらした。
現代では、これらの地震はヴェスヴィオ山の活動と関連があったと見なされているが、当時の人々は62年の大地震によって災害のピークは過ぎたと誤認していたという。
そして震災からの復興の途上にあった西暦79年8月24日にヴェスヴィオ山は大噴火した。
この噴火は13時頃に始まり、水蒸気爆発のあと、大量の軽石が噴出し、周囲に堆積していった。
軽石の堆積は1時間当たりにおよそ15cmのペースであったとされ、同じ日の18時には屋根に堆積した軽石によって潰される家屋が出はじめたという。
この間、断続的に火砕流が起きたと考えられているが、その最大規模のものは翌朝7時に発生し、周辺の町を住民もろとも飲み込んだ。
大プリニウスも近隣の町スタビアエでその火砕流に遭遇し、命を落とした。
噴火はその火砕流の少し後、8時頃まで実に約19時間持続していたという。
ポンペイも周辺の遺跡も埋もれたままになっていたが、16世紀には建築家ドメニコ・フォンターナが水路建設の途中で建物の一部を発見した。
しかし、このときはまだ遺跡の全体像は認識されていなかった。
転機となったのは18世紀にヘルクラネウムの遺跡が発見されたことである。
これを契機に1748年からブルボン家のカルロが主導する形でポンペイの発掘調査も始められた。
1760年に建築家のフランチェスコ・ラ・ヴェーガが発掘作業の指揮を執るようになると、より体系的な発掘調査が行われるようになり、町の南部で大小の劇場だけでなく、エジプトの神イシスを祀る神殿も発見された。
19世紀に入ると、まず1812年から13年の調査でフォルムなどが発見され、1830年には「アレクサンドロス大王とダレイオス3世の戦い」をはじめとするモザイクで飾られた「ファウノの家」などが出土した。
そして、1863年に考古学者ジュゼッペ・フィオレッリが、火山灰土中の空洞に石膏を流し込むという手法で、火砕流に巻き込まれた後、遺体が分解した人々の最期の姿を復元する手法を導入した。
1875年まで指揮を執ったフィオレッリは、発掘手法の進歩にも貢献し、彼が退いた後も、次々に重要な建造物は発見された。
すでに全体の8割が発掘されているといわれるが、残りの2割の発掘はあまりなされていない。
これは新しい発掘よりも、既存の出土品・遺跡を後の時代へと伝えていくことの方が重視されるようになっているためである。
[地図]
360°写真
登録年: 1997年
登録区分: 文化遺産
行き方:ナポリ中央駅から ヴェスヴィオ(ヴェスヴィアーナ)周遊鉄道 に乗り、「ポンペイ・スカーヴィ駅(ヴィッラ・デイ・ミステリ駅)」へ。
所要時間は35分ほど です。
私鉄(チルクンヴェスヴィアーナ)を利用するのであれば、約45分 かかる。
ポンペイ遺跡に行って下さい。 Per favore, vai alle rovine di Pompei.
ポンペイ遺跡はどこですか? Dove sono le rovine di Pompei?
出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
27.モデナの大聖堂、市民の塔、グランデ広場 Duomo di Modena, Torre Cittadina, Piazza Grande
モデナ大聖堂は、イタリア・モデナにある大聖堂。
ヨーロッパで重要なロマネスク建築の一つで、ユネスコの世界遺産に登録されている。
モデナ出身の著名なテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティの葬儀が行われた場所である。
大聖堂建設は1099年に主任建築家ランフランコの指揮下で始められた。
大聖堂は、モデナの守護聖人聖ジェミアヌスの墓の役割を持っていた。
5世紀から同じ場所にはかつて2つの教会が建てられ、どちらも破壊されていた。
聖人の遺物は今も大聖堂内の納骨堂に展示されている。
住所:Corso Duomo, 41121 Modena MO, イタリア [地図]
360°写真
登録年: 1997年
登録区分: 文化遺産
行き方:ボローニャから列車で約30分。
モデナ大聖堂に行って下さい。 Vai al Duomo di Modena.
モデナ大聖堂はどこですか? Dov’è Duomo di Modena?
出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
28.アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ Area archeologica di Aquileia e Basilica della Cattedrale Arcivescovile
アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカは、イタリア北東部のアクイレイアにあるユネスコの世界遺産。
古代ローマ時代の遺跡と、中世にこの地方のキリスト教社会の中心であった大聖堂(バシリカ) からなる。
アクイレイアの町は、紀元前181年に建設された古代ローマの植民都市に起源を持つ。
当時はアドリア海が現在よりも内陸に入り込んでおり、この都市は海のほとりに位置していた。
帝政期の1世紀から4世紀にかけて、アクイレイアは交易都市として繁栄し、最盛期には10万人を超える人口を擁して世界有数の都市と謳われた。
しかし5世紀以降、西ゴート族やフン族などの侵攻を受けてたびたび破壊され、再建のたびに都市は規模を縮小していった。
古代都市アクイレイアの遺跡は、何世紀にもわたって「採石場」として使われ、石材は持ち去られた。
このため地上には古代ローマ時代の建造物は一つも残っていない。
発掘により一筋の街路と、市壁の北西部が発見された。
市内の国立考古学博物館には、2000点以上の碑文、像、その他地元で生産されたガラスなどの遺物や、貨幣などが収蔵されている。
発掘調査はまだ終わっておらず、その全貌は明らかではないが、古代ローマ最大の都市ではないかとされている。
中世、アクイレイアはこの地方の中心都市としての地位を保ち続けた。
553年にアクイレイア大司教は総大司教に昇格している。
アクイレイア総大司教は、分裂や移転などの曲折を経ながらも高い宗教的権威を得、現在のイタリア北東部に広大なアクイレイア大司教領 を所有していた。
世俗の領土は1445年にヴェネツィア共和国によって没収されたが、アクイレイア総大司教は1751年に正式に廃止されるまで続いた。
総大司教の座所として建設されたのが総大司教座聖堂である。
現在のアクイレイア大聖堂は1031年、総大司教ポッポによって、もとの聖堂跡地に再建されたものである。
その後、1379年ごろに総大司教マルカド によってゴシック様式に改修された。
大聖堂は、陸屋根を持つバシリカ式聖堂である。
ロマネスク様式とゴシック様式のファサードは、柱廊玄関で、「異教徒の聖堂」や5世紀の洗礼堂の遺跡と繋がっている。
内部は1つの身廊と2つの側廊からなり、4世紀以来のモザイク模様の敷石が目を惹く。
天井は1526年の木造である。
後陣の区画にある聖ペトロ礼拝堂(4世紀)、後陣それ自体(11世紀)、クリプト(12世紀)などで、様々な時代のフレスコ画も見る事ができる。
クリプトは「フレスコ画のクリプト」とも呼ばれ、アクイレイアにおけるキリスト教共同体の起源や、アクイレイア初代主教ヘルマゴラスの物語が、ぐるっと取り巻くように描かれている。
外部には、9世紀の鐘楼と後陣の後ろ側に、第一次世界大戦で亡くなった10人の無名戦士の墓がたっている。
[地図]
360°写真
登録年: 1998年
登録区分: 文化遺産
行き方:電車でヴェネツィアからトリエステは約2~3時間ほど、トリエステからアクイレイア駅(Cervignano-Aquileia-Grado)までは約40分ほどで到着する。
駅から世界遺産のアクイレイアの遺跡地域と総主教聖堂バシリカへは、タクシーで約12分ほどで到着。
参考URL:第二のローマと呼ばれた都市!アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ
アクイレイア大聖堂に行って下さい。 Vai al Duomo di Aquileia.
アクイレイア大聖堂はどこですか? Dov’è Duomo di Aquileia?
出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
29.ウルビーノ歴史地区 Quartiere Storico Urbino
ウルビーノは、イタリア共和国マルケ州北西部にある都市で、その周辺地域を含む人口約1万5000人の基礎自治体(コムーネ)。
ペーザロ・エ・ウルビーノ県の県都のひとつである。
山間部の小都市であるが、多くの文化遺産を擁する芸術の街として知られる。
中世にはウルビーノ公国の首府であり、ルネサンス期にモンテフェルトロ家の下で最盛期を迎えた。
ラファエロはこの都市の出身である。
「ウルビーノ歴史地区」は1998年にユネスコの世界遺産に登録された。
[地図]
360°写真
登録年: 1998年
登録区分: 文化遺産
主な観光地(下記の外部リンクはGoogleマップを示しています。)
行き方:アドリア海沿いのマルケ州の町ペーザロ(Pesaro)の鉄道駅前横のバス停から約30分間隔でウルビーノ行きのバス(アドリアバス社)が出ている。
2014年9月15日から全てのペーザロからのバスが、ウルビーノのサンタルチア駅着になった。
参考URL:ウルビーノへの行き方(ローマ、フィレンツェ、アッシジからのアクセス方法)
ウルビーノに行って下さい。 Per favore, vai a Urbino.
ウルビーノはどこですか? Dov’è Urbino?
出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
30.パエストゥムとヴェーリアの考古遺跡群やパドゥーラのカルトゥジオ修道院を含むチレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園
Parco Nazionale del Cilento e Vallo di Diano, compresi i siti archeologici di Paestum e Velia e il Monastero di Cartusio di Padula
パエストゥムは、イタリア半島南部の古代ギリシア・ローマ時代の都市遺跡。
パエストゥムは神殿が有名で、ギリシアのアテネにある神殿、シチリア島にある神殿、そしてイタリアのパエストゥムの神殿が世界の三大神殿と言われている。
ヴェーリアの考古遺跡群は、紀元前4世紀から紀元前3世紀頃に栄えたエレアの街の跡です。
チレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園 は、イタリアの国立公園の一つでサレルノ県内の36,000ヘクタールに1991年に設立された。
その後拡大され、約180,000ヘクタールとなった。
現在では県南部の、北はセーレ平原から、東と南はバジリカータ州まで、西はティレニア海に至る。
8の山岳共同体と80のコムーネの領域の全てまたは一部が含まれる。
1997年からはユネスコの生物圏保護区、1998年からはユネスコの世界遺産となった。
住所:Via Magna Graecia, 917/919, 84047 Paestum SA, イタリア [地図]
360°写真
登録年: 1998年
登録区分: 文化遺産
行き方:ナポリからは、最短で所要時間1時間15分。
本数は1時間に数本ある。
ポンペイからは直通電車がなく、サレルノ乗り換えになるので、1時間30分くらいかかる。
参考URL:パエストゥム(ペストゥム)の遺跡への行き方 鉄道駅は無人駅なので注意!
パエストゥムに行って下さい。 Per favore, vai a Paestum.
パエストゥムはどこですか? Dov’è Paestum?