2024年9月1日掲載

クンタ・キンテ島

クンタ・キンテ島

1. クンタ・キンテ島と関連遺跡群  Kunta Kinteh Island and Associated Sites

クンタ・キンテ島と関連遺跡群(クンタ・キンテとうとかんれんいせきぐんクンタ・キンテとうとかんれんいせきぐんは、ガンビアにあるユネスコの世界遺産登録物件のひとつである。

構成資産の中心的位置を占めるクンタ・キンテ島は、セネガルの世界遺産であるゴレ島とともに西アフリカにおける奴隷貿易の中心地となってきた歴史を持ち、日本では負の世界遺産のひとつと位置づけられることもしばしばである

ただし、この物件はそれだけにとどまらず、後述するようにヨーロッパと西アフリカの交流の諸段階の様子を伝えていることも、登録理由の一つとなった。

登録当初は「ジェームズ島と関連遺跡群」だったが、島の改名に伴って2011年に現在の名称に変更された。

クンタ・キンテ島(旧ジェームズ島)は、この世界遺産の中心的な構成資産となっている小島で、世界遺産としての登録面積は 0.35 ha である

ガンビア川の河口から30 km の位置に浮かぶ中島で、現地民の口承によれば、ヨーロッパ人たちの到来前は釣り人たちが一休みするのに使っていた場所だったという

ガンビア川は前述のようにかなり上流まで外洋船が遡上できる川であり、そこでの交易の拠点として、島の所有権が争われた。

ガンビア川流域では16世紀半ばに英仏が相次いで交易に参入しても、恒常的な交易拠点が建設されることはなかった。

最初にそれを達成したのはクールラント・ゼムガレン公国である

クールラント人たちは1651年にこの島を、地元の小王国であったバラ (Barra) の王から借り受けた

バラの王はこうした賃貸や売買の契約を様々な相手に何重にも繰り返しており、これもその一つに過ぎなかったが、クールラント公国はこの契約を根拠に積極的に島に進出した

同じ年に彼らは島を聖アンデレ島と名付け、要塞を築き始めた。

しかし、すぐに短期間オランダの手に渡り、1661年にはイングランドが攻囲し、占領した。

1664年にクールラントから正式に譲渡されたその島を、イギリス人たちはヨーク公ジェームズにちなんでジェームズ島と改称した

それ以後、ヨーロッパ諸国の植民地戦争の影響を受けて、島とそこに築かれた要塞の所有権はイギリス、フランス、オランダなどの間で揺れ動き、度重なる攻防によって要塞は7度もの破壊と再建を繰り返した

なお、この島の要塞は真水の補給などを考慮せずに建てられていて、対岸から水を運ばなければならないなどの不便さを伴っており、風土病の存在とも相俟って、平時であっても死亡率の高い環境であった。

例えば、1721年にアフリカ会社から派遣されて島にたどり着いた60人の男性は、7か月で全滅した。

常にそこまで酷かったわけではないにせよ、配置された兵員の寿命は数年程度だったといわれている

そして、要塞は1779年にフランス軍が破壊したのを最後に再建されることはなかった

島はその後もしばらくは利用されたが、修復不可能な状態になった上に拠点としての重要性が失われたため、1815年には完全に放棄された

島が放棄された後にバオバブが生い茂るようになり、ペリカンの生息地にもなっている

世界遺産推薦書が作成された2001年時点では、島に定住者はいない

島に残るジェームズ要塞は、1654年にクールラント人が建造したものである。

当初の名前はクールラント公ヤーコプ・ケトラーにちなんでヤーコプ要塞とされていたが、イギリス人が奪取した後に現在の名前になった。

現存している要塞の遺構は、方形で四隅に見張り塔が設置されており、塔と塔の間には防壁が張り巡らされている。

防壁と塔の高さは5 m で、バレン要塞よりも高い。

島にはその要塞のほか、奴隷貿易が行われていた頃に、船出前の奴隷たちを収容していた施設などの遺構も残っている

『ルーツ』のクンタ・キンテも、船出前にこの島に移送された

ガンビア政府はその名をとって、2011年2月6日にジェームズ島をクンタ・キンテ島と改名した

島には厨房、鍛冶場、貯蔵庫跡なども当時のまま残っているが、他方で、航海灯、奴隷小屋のレプリカ、トイレ施設、旗竿などは、20世紀以降に整備される中で追加されたものである

ガンビア政府はこの島を奴隷貿易の開始とその拡大の様子を伝える資産の一つと位置付けて、世界遺産の構成資産に含めた

また、アフリカの地を二度と踏むことができなかった人々にとって、船出の前に見た最後の光景がこの島の景色だったはずという点からも、大西洋奴隷貿易を伝える文化遺産の中で特殊な位置を占めているとした

住所:ガンビア [地図]


登録年: 2003年
登録区分: 文化遺産

行き方:日本からバンジュール国際空港への直行便はありません。

カサブランカやブリュッセル、アムステルダムなどを経由する必要があります。

バンジュール市内には、世界遺産の構成資産の1つ六連砲台がありますが、観光客の立ち入りは制限されています。

バンジュールからフェリーでガンビア川を渡った対岸のバッラには、六連砲台と対をなす構成資産のバラン要塞があり、こちらは見学可能です。

ガンビア川のなかに浮かぶ世界遺産クンタ・キンテ島へ行くには、バッラからタクシーで東に向かい、島の対岸の村アルブレダかジェフレを目指します。

この2つの村からはいくつかのクンタ・キンテ島に渡るツアーが出ているので、お好きなものに参加しましょう。

またアルブレダとジェフレにも計6箇所の世界遺産の構成資産があります。

バンジュールから直接船でクンタ・キンテ島に行くクルージングツアーもあるので、日程や予算などと相談して決めると良いでしょう。

外務省海外安全ホームページでは十分注意地域です。(2024年7月現在)

現地に行く時は、最新情報を確認してください。

参考URL:奴隷貿易の歴史が残るガンビアの世界遺産「クンタ・キンテ島と関連遺跡群」

クンタ・キンテ島に行って下さい。 Go to Kunta Kinteh Island.

クンタ・キンテ島はどこですか? Where is Pulau Kunta Kinteh?

出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2. セネガンビアの環状列石  Senegambia stone circles

セネガンビアの環状列石(セネガンビアのかんじょうれっせき)は、セネガル、ガンビア両国に跨るセネガンビア地域で見られる環状列石群である。

39,000km2に分布しており、遺跡の総数は、1,965箇所で、16,790基の石碑及び石柱が発見されている。

また、1,045箇所の環状列石、3,448箇所の石をめぐらせた墓と石を使わない墓があり、9,093個の石が、石を使用した墓や環状列石を伴う墓に用いられている。

また単独の石碑ないし石柱は、3,204箇所確認されている。

そのうち一部がユネスコの世界遺産に登録されている。

登録対象地域は、ガンビアのガンビア川中流地方のKerbatchと Wassu、セネガルのカオラック州のSine Ngayène、Warnarの4箇所である。

立ち並ぶ巨石は8世紀頃に、より早い時期の墓の上に墓標として立てられたものであり、12世紀頃まで続けられた。

10個から24個の石でそれぞれの環が形成され、高さは1メートルから2.5メートル、重いものでは10トンにもなる。

これらの石は、一般的にはラテライトである。

1,000以上の環状列石群があるが、最大のものは1,000以上の石で52の環が作られているジャルンベレ (Djalloumbéré) のもので、ワッス (Wassu) 周辺にある。

ワッスには、環状列石に関する博物館がある。

環状列石には、伝統的に上に小さな岩が置かれているが、その意味は未詳である。

環状列石が立てられた理由自体も解明されていないが、2006年にナショナル・ジオグラフィックが報告した発掘調査によれば、葬儀に関するものであった可能性が示唆されている。

住所:M4RG+MQ9, Wassu, ガンビア [地図]


登録年: 2006年
登録区分: 文化遺産
営業時間:08:00~18:00
電話番号:+220 341 4605

行き方:セネガンビア(Senegambia)に位置するストーン・サークル群は、長さ約350km、幅約100kmという広大なエリアに広がっています。

全ての遺跡を見学するのは難しいので、事前に見たいスポットを絞っておくようにしましょう。

なお、最も大きなストーン・サークル群があるワッス(Wassu)までは、ガンビアの首都バンジュール(Banjul)から東方向に約200km、セネガルの首都ダカール(Dakar)からは南東方向に約350kmです。

どちらからも離れた場所にありますので、車とガイドを手配し一日かけて周れるようスケジュールに余裕を持たせておくと良いです。

外務省海外安全ホームページでは十分注意地域です。(2024年7月現在)

現地に行く時は、最新情報を確認してください。

参考URL:壮大な古代人の墳墓!セネガルとガンビアに跨るストーン・サークル群

Wassuのストーン・サークルに行って下さい。 Visit the Wassu stone circle.

Wassuのストーン・サークルはどこですか? Where is the Wassu stone circle?

出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』