2024年6月12日掲載

ハトラ遺跡
引用:Wikipedia
1.ハトラ الحضر
ハトラ(アラビア語: الحضر al-Ḥaḍr)はイラク共和国北部のニーナワー県モースルの南西約100km、サルサル・ワジ川のほとりの砂漠地帯に残る歴史的な都市遺跡。
1985年に世界遺産に登録された。
別名を「神の家」という。
パルティア帝国の重要な要塞都市で、ローマ帝国の度重なる攻撃に曝された。
2015年3月にイスラム過激派ISILに破壊された。
2015年の第39回世界遺産委員会はイラク文化財を守るための国際的な協力を呼びかけつつ、ハトラを危機にさらされている世界遺産(危機遺産)リストに加えた。
ハトラでは紀元前1世紀ごろから神殿を備えた都市が形成され、アルケサス朝パルティアの領内にあった。
ハトラはローマ帝国とパルティアを結ぶキャラバンルート上の交易都市として重要であった。
ハトラが都市として繁栄したのは2世紀のことであり、当時のハトラはパルティアとローマの間にある緩衝国の役割を果たしていた。
碑文に見える人名によれば、住民の多くはセム系のアラム人やアラブ人であるが、イラン系の人々も住んでいたことがわかる。
軍事要塞としてのハトラは、紀元116年から198年の間、再び始まったローマ軍の攻撃によく耐えた。
「117年、ハトラの近くまでやってきたトラヤヌス帝は、パルティア勢力の拠点と思われたこの砂漠都市を包囲し始めたが、数日後、やむなく断念した。周辺の人々から人と駄獣のための補給を何も得られず、水も乏しく質が悪かったからである。(中略)ローマ人は、食べ物や飲み物に狂ったように群がるしつこい蝿の大群にも悩まされた。」
砂漠と草原に囲まれているという地理的利点と、いくつもの塔によって強化された高く厚い二重構造の円形の城壁及びその中に収容した屈強な兵によって、強固な軍事的優勢を確保したのである。
116年のトラヤヌス帝による攻撃、その80年後のローマ軍の遠征、そして216年のカラカラ帝の軍隊による襲撃をも退けたハトラだったが、3世紀にサーサーン朝ペルシアの攻撃によって征服・破壊された。
ケルンのマニ写本によれば、サーサーン朝のアルダシール1世またはその子のシャープール1世との共同統治時代である240年から241年の間にハトラは征服された。
アンミアヌス・マルケッリヌスは、363年にハトラの廃墟を訪れて、すでに遠い昔に無人になった土地にあることを記している。
1836年から翌年にかけて、バグダードの医者であったジョン・ロスによってハトラの廃墟が再発見された。
最初の調査は1906年から1911年にかけてドイツのアッシュール発掘調査団によって行われた。
体系だった発掘は1951年になってようやくイラクの考古学者によって行われた。
住所:イラク [地図]

ハトラ遺跡
引用:Wikipedia
登録年: 1985年
登録区分: 文化遺産
行き方:ハトラの最寄りの都市はモスルですが、ここは2017年7月にISILからの奪還が宣言されたばかりで、インフラはほとんど機能していません。
モスル空港に就航している便も2018年現在ではありません。
利用できる空港で最も近いのは、アルビール国際空港です。
アルビールへは、イスタンブールやドバイ、アブダビなどを経由して行きます。
アルビールからハトラへ向かう公共交通機関はありません。
外務省海外安全ホームページでは退避勧告地域です。(2024年4月現在)
現地に行く時は、最新情報を確認してください。
参考URL:二重の城壁に守られたパルティア王国の要塞都市!イラクの世界遺産ハトラ
ハトラまで行って下さい。 يرجى الذهاب إلى الحضر.
ハトラはどこですか? أين تقع الحضر؟
出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2.アッシュール(カラット・シェルカット) آشور (قطع قذيفة قيراط)
アッシュル(Aššur/Ashur)は、イラク北部に位置する古代都市。
前2600年頃から人が住み始め、後14世紀半ばに放棄されるまで、およそ4000年続いた。
古アッシリア・中アッシリアの首都として栄える。
新アッシリア時代には首都ではなくなったが、宗教の中心地として重要性を維持した。
前614年にメディアと新バビロニア連合軍により占領された後は衰退した。
アッシュル( アラビア語: اشور)は現代の地名でカルアト・シェルカート(Qal’at Sherqat)とも呼ばれる。
アッシリアの母市であり、創建以来その首都、あるいは国家そのものとして機能していた。
新アッシリア時代(前911年-前608年)には別の王都がいくつか整備されたが、この都市の持つ宗教的・政治的重要性が衰えることはなかった。
遺跡はティグリス川の西岸、支流である小ザブ川とティグリス川の合流地点の北にあり、現在はイラク領内にある。
より具体的にはサラーフッディーン県のアル=シェルカート地区に位置する。
アッシュル遺跡は世界遺産に登録されており、2003年のイラク侵攻とその後の勃発した紛争、および構想中のダム建設が遺跡の一部を水没させることから、2003年に危機遺産に追加された。
アッシュル市はニムルドの65キロメートル南、ニネヴェの60キロメートル南にある。
住所:F746+JCQ، Al-Shirqat, Al-Shirqat، イラク [地図]
360°写真(Ashur)
登録年: 2003年
登録区分: 文化遺産
営業時間:09:00~17:30
電話番号:+964 781 237 9726
行き方:イラクは治安が不安定なため、渡航については引き続き禁止されています。
外務省海外安全ホームページでは退避勧告地域です。(2024年4月現在)
現地に行く時は、最新情報を確認してください。
参考URL:【メソポタミア文明】イラクの世界遺産一覧!|古代文明の足跡とは?
アッシュル遺跡まで行って下さい。 اذهب إلى آثار آشور.
アッシュル遺跡はどこですか? أين آثار آشور؟
出典元: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
3. サーマッラーの考古学都市 مدينة سامراء الأثرية
サーマッラー(سامراء Sāmarrāʾ)はサラーフッディーン県に属するイラクの都市。
チグリス川に面しており、メソポタミア文明以来の歴史を持つ。
4世紀のローマ皇帝ユリアヌスが死去した街である。
836年、アッバース朝の8代カリフであるムウタスィムは、マムルーク軍団とアッバース朝正規軍の対立を背景として、即位3年ながら都をバグダードからサーマッラーに移した。
それから892年までの約50年間サーマッラーはアッバース朝の都であり続け、今日まで残るモスクとしては世界最大であるサーマッラーの大モスクが築かれるなど、一定の繁栄を保った。
しかし、東西貿易の幹線道路から外れていたことなどが影響してバグダードを超える都市機能を備えるまでには至らなかった。
20世紀に入るとサーマッラーの発掘調査が行われるようになり、1911年にはヘルツフェルト (Ernst Herzfeld) 率いるドイツ調査団がサーマッラーの発掘をおこなった。
1965年にはイラク考古局のカッサール (Awad al-Kassar) のもとで大モスクやアッバース宮殿、アル=アーシク宮殿の修復が行われた。
20世紀に、チグリス川の氾濫を防ぐダムが建設されると、洪水が減って人口が増加し、現在およそ20万人の人口を擁する。
スンナ派が多数を占めているが、シーア派の12代イマームであるムハンマド・アルムンタザルを祀る聖地であり、スンナ派のバアス党を率いて一党独裁していたサッダーム・フセイン元大統領がイラク戦争に敗れて失脚すると、両派の間に緊張が引き起こされるようになった。
2007年に「都市遺跡サーマッラー」としてユネスコの世界遺産に登録された。
イラクの情勢に鑑みて、登録と同時に「危機にさらされている世界遺産」リストにも加えられた。
住所:6V4H+9WG، شارع الشروق, Samarra, Saladin Governorate イラク [地図]
360°写真(マルウィーヤーの螺旋状ミナレット)
登録年: 2007年
登録区分: 文化遺産
営業時間:09:00~17:00
行き方:サーマッラーはイラクの首都バグダッドの北西80kmほどのところにあります。
バグダッドから鉄道かバスでアクセスします。
バスは世界遺産のある旧市街に停車しますが、鉄道駅はティグリス川の対岸にあるので気を付けてください。
世界遺産の主だった構成資産はサーマッラーの中心部からやや外れた場所にあるので、市内からはタクシーを利用したほうが良いでしょう。
外務省海外安全ホームページでは退避勧告地域です。(2024年4月現在)
現地に行く時は、最新情報を確認してください。
参考URL:アッバース朝の古都!イラクの世界遺産「サーマッラーの考古学都市」
サーマッラーまで行って下さい。 من فضلك اذهب إلى سامراء.
サーマッラーはどこですか? أين تقع سامراء؟